定点観測:同じ場所(定点)から継続的にある一定の視点をもって観察し、以前のものと比較してその差異を分析すること。(はてなダイアリー)
感情と意志


意志で感情は変えられません。意志で変えられるのは行動です。しかし、行動によって感情は変わります。やりたくないことを無理矢理やらされたらストレスがたまりますが、やりたくないことを頑張ってやっている自分を客観的に見て偉いとは思いませんか。



http://www.asahi-net.or.jp/~VI5J-HTKY/positive/kimochi.htm





2008⁄07⁄02(Wed) 21:34   未分類 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
AERA ニッポンのマンガ(朝日新聞社)


2006年の11月1日に発行された雑誌で、内容としては、手塚治虫文化賞10周年記念、ということで、過去の受賞者へのインタビューやら、ナビゲーターが振り返るここ10年のマンガ史やら、寄稿されたマンガやら、とても豪華なものになっている。そのために、僕はずっとこの雑誌を捨てることができなかったのだけれど、捨てられると今思ったので、この文章を書いている。

シンプルに生きたい、という思いが僕にはあって、シンプルに生きるというのは、どういうことかというと、つまりは、物や、しがらみが少ない、ということだ。いつもゼロに近い状態でいたい、という気持ちがある。以下で引用するのは、高野文子のインタビューと松尾スズキの文章なのだけれど、その二つの内容が、そういう僕の気持ちと少し近いことを言っているんじゃないかと思えて、だから、それをここに記録しておけば、捨てられるんじゃないかと思った。

高野文子インタビュー

(『黄色い本』を)描き終わったら、思い出すこともすっからかんになって、日記も本も捨ててしまいました。

――その後の、読書傾向は。
 フィクション以外の本が面白いことに気付いたんですよ。(…)こういう文章を読むと、小説を読む時の湿っぽくて生暖かい風じゃなくて、草原のそよ風みたいなさわやかな風が吹く(笑い)。

――マンガはお風呂場の「脱衣所」で描くそうですね。
 一番、人の気配から遠い場所なので。それに仕事場に机を用意したりしなくても、ペンと紙さえがあれば、どこででも描けるものだと思いたい。絵も、「デッサン力なんかなくても描けるんだ」って若い人に力がわいて、翌日から描き始められるようなものを描きたいんですよね。

――でも、時間をかけて完成させる。受賞作(『黄色い本』のこと)は3年がかりです。
 山ほどの時間を好きに使わせてもらったから、描けた作品だと思います。締め切りをせっせと約束して、マンガで食べていこうと思っていたら描けなかった。そういう意味で、私はプロマンガ家とは言えない。でも、趣味で描いているわけではない。今も、全然描いていないですけど、ずっとマンガのことを考えている。24時間のうち、マンガ家じゃない時なんて、ないくらいです。



フィクションにある重苦しさというのは、現実逃避の願望があるのに、結局は現実から逃げることはできない、という事実があって、相反する二つの方向性を抱えているからなのではないかと思う。でも、現実を現実としてただ受け止めれば、逃げる必要なんてないんじゃないか、そういうシンプルさが、ノンフィクション(現実)にはある。そうは言っても、やっぱり辛いのが現実だから、現実逃避としての物語はあり続けるのだけれど、それでも、現実だけで生きられる、というのは本当のことなのだと思う。ペンと紙さえあれば、どこででも描ける、誰にでも描ける、というのも、本当なのだろうと思う。高野文子というマンガ家は、独特の絵作りが評価されているようなマンガ家だから、デッサン力がなくても、代わりに別な、ある種の才能のようなものがなければ、結局は駄目なんじゃないか、とも思うのだけれど、それでも今は、そのことは考えないで、ペンと紙さえあればいい、と僕は思いたい気がする。

松尾スズキ寄稿文

 当然、おのれの人生であるから、おのれが主人公であることを前提に街などを歩いているのですが、街は他人というおのれで満ちているのであり、その皆が皆、おのれがおのれが、と前提しつつ歩いているのであり、内容としては「主人公だらけ」の街は、それなりに怖い。

なにげなく見上げた団地の、その一個一個の灯りの中に濃密な家族のドラマがあるのである。

大人になれば「子供的」な問題はすべて解決するはずと思って、大人になってみたが、なればなったで「大人的」問題の深さ重さよ。なのに、自分を振り返る暇も余力もない。

 ああ、逃げたい、あの愉快な『失踪日記』の中に逃げたい、と思いつつ、きっと逃げないなあとも、しっかりと思っている。



こういう引用の仕方では、読んでる人には、何が何だかわからないと思うのだけれど、僕が興味を惹かれたのは、松尾スズキという人の現実認識の仕方で、この人は、誰もが主人公になろうとしている世界で、ほとんどの人は(自分も含めて)エキストラでしかないことを知っている。それは、一歩引いた見方で、そういう場所からさらに行けるところというのは、絶望か、特殊な場所か、そのどちらかしかないと僕は思うのだけれど、この人はその地点から、自分、というエキストラとしての人生に戻るような生き方をしているみたいに見える。それは、普通だな、という意味ではなく、すごく真っ当だな、と思う。矮小な人生とか、つまらない人生とか、一面としては、そういう人生である多くの人の人生であっても、違う場所からながめれば、そうではない面があって、だからそれでいい、というのではないのだけれど、でも絶望するんじゃなくて、期待するんじゃなくて、あるいは、そうしてもいいのだけれど、自分の人生を生きているだけなんだ、という想像力を、いつも持っていれば、軽やかな一瞬があるんじゃないかと思う。それは、真っ当であることの真っ当さというか、大人になればいいんじゃないか、という答えのような気がして、簡単で真っ当な正しいことのような気がした。





2008⁄06⁄24(Tue) 17:56   未分類 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
青い車


主人公のリチオは、中古レコード屋で働いていて、ときどきクラブのイベントでDJをする。彼は子供の頃、交通事故に遭い、片目に傷を負う。その傷を隠すために、いつもサングラスを掛けている。彼は、毎日をただやり過ごしている。彼には、アケミ、という不動産会社に勤めている恋人がいる。恋人には、高校三年生の、コノミ、という妹がいる。

ストーリー

ストーリー的な展開があるのは2点。ひとつは、リチオとコノミが関係を持つことで、もうひとつは、アケミが交通事故で死ぬこと。

ひとつめの展開は、リチオにとっては、それほど意味を持たなかったように僕には見えた。彼の日常は彼が抱えているものを、彼自身がどうにかしない限りは、ずっと同じように続いていくのだろう。けれど、コノミにとっては、それなりに意味があったんじゃないだろうか。それは、やっぱり、恋愛、という意味で、リチオと会って、キスしたり、セックスしたり、しているときの、コノミ(宮崎あおい)は楽しそうだった。

もうひとつめの展開は、リチオにとっても、コノミにとっても、身近な人間の死というのは、大きな意味を持つ。それでも、結局、この世界は何も変わりはしないように見えて、僕は何とも言えない感じになった。

キャスト

この映画はストーリーがどんどん展開していくような映画じゃなくて、ただの日常が描かれていることに意味があるような映画だ。それは、リチオという主人公のキャラクターがそうだからなのだけれど、リチオ役のARATAが、いつも何かに深刻に悩んでいるようでありながら、レコード屋の主人のマチダさん(田口トモロヲ)らと、へらへら冗談を言って笑っているのは、僕にはリアルに感じられた。

リチオとコノミは、自分の身分を決定できていないという点で共通しているのだけれど、コノミの場合には、何か大きなトラウマを持っているわけじゃない。普通の家庭に育って、普通に生きてきたはずなのに、それでも、何で生きているのかわからない、というような少女を、宮崎あおいちゃんは上手く演じている。というか、それは理由ではなく、性質のようなものなのだということを、宮崎あおいという人が知っているからなんじゃないだろうかと思う。

麻生久美子が演じるアケミという女性は、たぶん割と普通に生きてきた女性で、きっと彼女の周りにいた人達も同じように、それほど大きな悩みや問題を抱えていなかった人達だったのではないかと思う。彼女自身は、何か大きな問題を抱えているわけではなくて、ただ恋人のリチオや、妹や、家族や、同僚と、楽しく、幸せでいられたらいいと思っている。リチオやコノミが悩んでいるのをわかっていて、それを理解できるのだけれど、辛さを共有して、一緒に生きていくことができないことに彼女は、無力さとか、悲しみとか、苛立ちを感じているのだろうと思う。普通に生きてきた彼女にとって、苦しんでいるリチオは、可哀想、で、一緒に幸せになればいいのだろう、と思っているのに、そう言った彼女に、「それで?」と言って、何も変えよう(心を開こう)としないリチオに、彼女は苛立つ。彼女はお姉さんで、妹のコノミに「一緒に、熱海に行こうか?」と誘うのだけれど、妹は首を振る。そういうことも、彼女には悲しいのだろうと思う。麻生久美子はそういう女性をきちんと演じていると思う。





2008⁄06⁄15(Sun) 07:40   映画 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
小林秀雄『考えるヒント』(文春文庫)


この本は大きく二つの部分に分かれている。前半は、「考えるヒント」と題された思索で、後半は、「四季」と題されたエッセイだ。内容もしくは形式自体が違っているものだから、当たり前かもしれないけれど、前半と後半では文体が異なっている。

「四季」の初めに収録されているのは、「人形」という題の文章で、こういう文章から始まる。

 或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。



これは、描写、と呼ばれるような文章だけれど、「考えるヒント」の方には、こういう文章はない。「考えるヒント」では、著者である「私」は、大阪行の急行の食堂車、に乗ったりしないし、そこで、遅い晩飯、を食べたりしない。風景や、生活や、自己の身体感覚、といったものは、描写として存在しない。考える文章、にとっては、そういうものは必要じゃないからだ。

そういう意味で、読みやすい、退屈せずに集中力が続くのは、後半の文章の方だろう。けれど、この本のタイトルである、「考えるヒント」、になるのは、普通に見れば、前半の文章の方だろうと思う。前半の文章は、思考だけが綴られているので、考える、ということの道筋がたどりやすいのではないかと思う。だから、もし文章を読むことに、物語だけを期待するのでなければ、この本の前半と後半で、どちらが読みやすい、と言うことはできない。この本の文章は、前半と後半で文体が違うものの、読みやすい文章ということで言えば、どちらもそうだからだ。

考える、ということは、普通、人間が考える、ということを指す。そのときには、人間の暮らしというものが、前提として意識されていなければならない。それができていないと、頭でっかち、と言われるのだろう。僕は前半の文章には、風景や、生活や、自己の身体感覚、といったものが、描写として存在しない、と書いたけれど、思考のなかにはきちんと存在している。小林秀雄という人は、そういうことをきちんと意識しているので、頭が良い人だな、と思う。文章を読んで僕が、頭が良いな、と思う人は、普通の人が特別な時にしか意識できないようなことを、常に意識しているかのように文章の上で振る舞っている人だ。

考える、ということは、人間の生きる営みのなかにある。だから、僕たちが考える、ということは、そういう生活のなかで考える、ということ意外にはあり得ない。そういう意味で、後半の文章も、「考えるヒント」になる。後半の文章には、食べる、見る、眠る、といった人間が生きる上で、当然行わなければいけない動作が綴られており、そのなかに、考える、ということもある。前半の文章が、腰を落ち着けて書かれた、思索、の文章だとすれば、後半の文章は、「私」が生活し、何かを思い浮かべ、また考えたことの文章だ。そういう文章を何と呼ぶのかと言うと、それは、エッセイ、と呼ぶのだろう。

以前に、橋本治の『蝶のゆくえ』という小説を読んだとき、僕は橋本治の文章が姫野カオルコのそれと似ている、と思ったけれど、小林秀雄の文章は池田晶子のそれと似ていた。姫野カオルコも池田晶子も、自らの口で、影響を受けた、と公言してもいる。

橋本治と姫野カオルコの文章は、人の本心というか、言動の裏にある心理を見逃さない観察眼のあるところが、似ていたけれど、小林秀雄と池田晶子の場合は、考える、ということと、言葉、というものに対するこだわり方が、似ている。言葉に対するこだわり方、というのは、言葉の使用に際して、細心の注意を払う、ということで、よくわからない言葉を何となく使う、といったようなことは、この二人に関してはあり得ない。そんなことは、文章を書くことを職業にしている人間なら、当然のことかもしれないが、この二人の場合、その意識がとても強く感じられる。

それはおそらく、小林秀雄という人間と、池田晶子という人間にとって、考える、ということと、言葉、というものがとても大事なものだったからなのだろう。それはきっと、橋本治と姫野カオルコにとって、常に他者を観察し、それと同じように、自己を観察することが、大事なものであるということと、同じことなのだろう。

それはつまり、彼らにとっての生理のようなもので、姫野カオルコや池田晶子は、文章上の技巧に影響を受けたのではなく、橋本治や小林秀雄の持つ、何らかの志向に対して、共感しみちびかれたのだろう。影響を受ける、ということは単に真似をする、ということではなくて、どうしようもなく似てしまうというような、そういうことであるような気もする。





2008⁄06⁄05(Thu) 07:07   エッセイ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top


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2008⁄06⁄04(Wed) 16:32   未分類 | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top

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